もっと知りたいベーデン=パウエル

このページにやってくるとは…
お主はまこと勇敢な戦士じゃな!

鱗滝
ウルフ

このページではロバート・ベーデン=パウエルについて、もっと詳しく知りたいという皆さん向けのものです。
難しい言葉や表現もあるので、解らないところはググりながらご覧下さい。


本題に入る前にBPが生まれる19世紀半ば頃の世界情勢について説明しようかの。

18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命は、19世紀にかけて欧州諸国やアメリカ大陸の国々にも波及していったのじゃ。

その中でもイギリス・フランス・ドイツ・ロシアは自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、強大な国家をつくろうとする「帝国主義」政策をとり、世界中の至るところで競いあっておった。特にイギリスは「大英帝国」と呼ばれ当時の世界をリードしておった。

鱗滝

大英帝国の最大版図がこちら

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ウルフ

イギリスすごいですね~!
そのころの日本は江戸時代の幕末から明治維新くらいですね~。


BPの父「ベーデン・パウエル」はオックスフォード大学の幾何学教授で、牧師の資格を持ち、改革派の神学者じゃった。
また母はイギリス海軍の名家スミス家出身の「ヘンリエッタ」じゃった。
ちなみに、当時の大学教授の多くは上級の聖職者じゃったぞ。

BPは1857年2月22日イギリスのロンドンのパディントンで二人の8番目の子として生を受け、「ロバート・スチーブンソン」と名付けられたのじゃ。
名前の由来は、蒸気機関車を発明した「ジョージ・スチーブンソン」の息子で鉄道技師の「ロバート・スチーブンソン」からである。
家族からは「スティービー」と呼ばれていたそうじゃ。

1860年BPが3歳の時、父親が亡くなった。
高名な教授・聖職者であった父を称え、家族は姓を「ベーデン=パウエル」に改めたのじゃ。
BPには本人を含め10人の兄弟(9男1女)がおったが、3人の兄が早世しており、7人兄弟じゃった。

鱗滝

欧米では高名な親の名前を姓に入れがち

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たくさん兄弟がいてお母さん一人で大変だったでしょうね。

1870年、猛勉強して奨学金を獲ることができたBPは、13歳で公立のエリート寄宿学校であるチャーター・ハウス・スクールへ入学した。
すばぬけて秀才という訳ではなかったが、最も活発な生徒の一人で、特にスポーツ、音楽、スケッチ等に秀で、校内の人気者じゃった。
休日には兄弟と一緒にヨットやカヌーで遠出しておったそうじゃ。

観察推理の技術が得意で、よく立入禁止の森に忍び込んで、足跡を残さない方法や、木の登り方、教師が森に入ってきた時に気付かれぬよう身をひそめる方法などを学んだというエピソードがあるぞ。

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小さい頃から多才で行動的だったんですね~。

1876年、BPは俳優を志すも母の反対にあい断念。
オックスフォード大学などを受験するも失敗し、イギリス陸軍の入隊試験を受け、成績優秀で士官候補として入隊するのじゃ。

総勢3000人程の第13軽騎兵連隊に配属され、イギリスからの独立運動で政情が不安定じゃったインドに駐在し、特技を生かした斥候、地図づくり、 調査報告に専念したのじゃ。
軽騎兵とは重い装備は着けず、最小限の装備で、馬の速さを活かした斥候・後方撹乱・奇襲等の役を担う騎兵じゃ。
翌年には早くも中尉に昇任し50人程度の部隊を率いる小隊長になったぞ。

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なんだか最初からBPに向いた部隊への配属だったんですね。

体調を崩したBPは一時的にイギリスに帰国したが、1880年に第13軽騎兵連隊に復帰して、アフガニスタンのカンダハールに移駐したのじゃ。
この時にBPは海軍で用いられていた手旗信号を、初めて陸上で使用したそうじゃ。

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西アジアや中央アジアに進出し始めたロシアは、アフガニスタンやインドにも影響力を強めようとしたが、イギリスは先手を打ってアフガニスタンに侵攻し、イギリスの保護国とした。(第二次アフガン戦争1878~1880)
当時の南アジアの状況図がこちら

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1881年、第13軽騎兵連隊は現在のオマーンの首都マスカットの近郊にあるムトラへ移駐した。
ムトラはアラビア半島のほぼ先端に位置し、イギリスの南アジア支配のための重要な寄港地じゃった。
この時にBPは大尉に昇任しておるぞ。

1884年、第13軽騎兵連隊は現在の南アフリカの東部であるイギリス領ナタール州のダーバンへ移駐した。
ダーバンはナタール州にある国際港湾都市・リゾート地じゃった。

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イギリス軍にとって重要なところを転々としてたんですね。

さて今後のBPにとって重要な地となる当時の南アフリカの状況について説明しておかねばなるまい。

18世紀末、フランス革命後の国内の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した「ルイ・ナポレオン」は他国へも侵攻したのじゃ。

1795年にオランダはフランス革命軍に敗れ占領された。
これによりオランダが保有していた植民地は無政府状態となり、植民地拡大を狙ったイギリスは、アジア航路の重要な中継地でもあったオランダ領ケープ植民地へ侵攻し占領した。
占領者であるイギリス人によって迫害を受けたオランダ系移民であるボーア人は、ケープ植民地の東にある先住部族国家のズールー王国に侵入(グレートトレック)し、1839年ナタール共和国を建国した。
しかしイギリスはこれを認めず、1842年にナタール共和国を攻め滅ぼし、イギリス領ナタール植民地(ナタール州)としたのじゃ。

敗れたボーア人たちは内陸へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ自由国を建国した。
両国は内陸であり、侵攻するには経費がかさむため、イギリスは両国の建国を承認したのじゃ。

1860年代にオレンジ自由国のキンバリーでダイヤモンド鉱山、トランスヴァール共和国の東部で金鉱脈が発見されると、多くのイギリス人技術者が両国に流入した。
内陸国であるトランスヴァール共和国は、交易をするための港を求めて東のズールー王国方面へ進出しようとしたが、富を独占したいイギリスは、それを認めず1880年にトランスヴァール共和国と戦いになった。(第一次ボーア戦争1880~1881)

しかしイギリス軍は各地で惨敗し、再度両国の独立を承認して戦争は集結した。
この戦争で、イギリスの目論見ははずれ、大英帝国の面目は丸つぶれとなったのじゃ。

1884年にトランスヴァール共和国のヨハネスブルグで大金鉱脈が発見されると、再び多くのイギリス人技術者が流入した。
トランスヴァール共和国はイギリスへの対抗手段として、イギリス系の金関連産業に重税を課した。
これによりイギリス人の間で再びボーア人国家打倒の機運が高まることとなったのじゃ。

1899年10月トランスヴァール共和国はイギリスの戦闘体制が整う前に宣戦布告し、オレンジ自由国のキンバリー、ナタール州のレディスミス、ケープ植民地のマフェキングへ侵攻を開始した。(第二次ボーア戦争1899~1902)

キンバリーとレディスミスを陥落させ、他の緒戦もボーア軍が勝利したが、マフェキングを落とすことができず長期戦となり、早期決着での勝利を狙ったボーア軍の目論見ははずれ、内陸に釘付けにされたのじゃ。

1900年2月にイギリス本国等から大規模な増援部隊が到着すると、イギリス軍が反抗を開始。5月にマフェキングを解放し、6月にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアを占領したのじゃ。

四散したボーア人は各地で小規模な抵抗を見せたが、イギリス軍に鎮圧され、1902年にトランスヴァール共和国は滅亡したのじゃ。

この戦争の勝利により、イギリスは金とダイヤモンドが生み出す圧倒的な富を得ることが出来たのじゃ。

その後のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国は、1910年の南アフリカ連邦の成立と共に、トランスヴァール州、オレンジ州となったのじゃ。

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ボーア戦争は世界で初めて映像に記録された戦争でもある。
当時の南アフリカの状況図がこちら。

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なるほど!
南アフリカを制することはイギリスにとって最重要な案件だったわけですね。

1885年にBPはドラケンスバーグ山脈への独行偵察(3週間・600マイル)に成功。
ドラケンスバーグ山脈とは、当時のナタール州とトランスヴァール共和国・オレンジ自由国との国境に位置する険しい山脈で、3,000m級の山が多数そびえておる。最高峰はバナントレニャナ山(3482m)じゃ。
その後BPを含め第13軽騎兵連隊は本国に帰還したのじゃ。

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軽騎兵部隊としての集大成みたいな独行偵察だったんですね。

1886年にBPはロシア陸軍・ドイツ陸軍の軍事演習をスパイし、新型兵器や飛行船の情報を持ち帰ったのじゃ。
当時の主な動力は大型になる蒸気機関で、小型の内燃機関は実用的ではなかったため、戦車や飛行機といった近代兵器はまだなく、列強各国は蒸気機関で空から他国へ侵入し攻撃することができる大型飛行船の開発で競っておった。

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1885年、ドイツの「ゴットリープ・ダイムラー」がガソリンエンジン搭載の二輪車を初制作、同じく「カール・ベンツ」がガソリンエンジン搭載の三輪自動車を初制作した。
アメリカのライト兄弟が有人動力飛行に成功したのは1903年。

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1887年、ドイツ陸軍・フランス陸軍の軍事演習をスパイする。
イラストが得意なBPは、蝶の収集家に変装し、蝶の羽根のスケッチに偽装して軍事施設の見取り図を描いたりしていたのじゃ。

同年地中海のマルタ島の総督であった「ヘンリー・スミス」将軍の秘書兼上級補佐官に抜擢され、地中海沿岸各地の治安維持や情報収集にあたったのじゃ。

1888年、一時的にイギリス領ナタール州に出張り、イギリスに従わない先住部族のズールー族と戦い、戦利品として木製のビーズ数千個に紐を通した首飾りを手に入れるたのじゃ。

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この木製ビーズは、ボーイスカウトのリーダー研修修了の証である「ウッドバッジ」の起源となる。

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ズールー族は、現在の南アフリカからジンバブエにかけて居住している先住部族じゃ。
19世紀初頭にズールー王国を建国するが、ボーア軍やイギリス軍に攻められ王国は滅んだのじゃ。
ズールー族は銃火器を装備するボーア軍やイギリス軍に対して、槍や盾のみで勇敢に戦ったのじゃ。

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ボーイスカウトの皆さんの隊長さんも、ウッドバッジ付けてるかもなので、次に会った時に見てみましょう!

1895年BPは正式にナタール州に移駐した。
ズールー族などの先住諸部族と戦う中で、BPの勇気・斥候技術・追跡能力は諸部族からも称えられ「眠らないオオカミ(インペーサ)」と呼ばれ畏れられたのじゃ。
この後BPは中佐に昇任したのじゃ。

1896年現在のジンバブエにあたるイギリス領南ローデシアに援軍として出向き、先住部族と戦ったが(第二次マタベレ戦争1896~1897)、この時アメリカ人の「フレデリック・ラッセル・バーナム 」と知り合い、アメリカの西部開拓時代の木工品やハットネッカチーフなどを紹介され、これが後のスカウトのスタイルのアイデアになったとされておる。
この後、現在のガーナにあたるイギリス領ゴールドコーストで先住部族のアシャンティ族とも戦ったぞ。(第四次アシャンティ戦争)

1897年には第5近衛竜騎兵部隊の指揮官となりインドに戻ったのじゃ。
近衛とは王室直属という意味で、竜騎兵とは小型銃火器等で武装した騎兵で、最前戦で高速で移動し、斥候・後方撹乱・奇襲等の役を担った軽騎兵の一種なのじゃ。
BPは若い兵士の教育も担当し、斥候技術の他、兵士自身が命令に頼らず考えて行動できるよう教育し、軍の上層部からも賞賛されたそうじゃ。

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この時の経験を基にBPが1899年に著した『下士官と兵士のための斥候術の手引き』は若い兵士向けの教本であったが、多くのイギリスの少年たちの間でブームになった。

19世紀末から20世紀初頭のアフリカの植民地状況図はこちら。

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1899年の第二次ボーア戦争が始まる前に、BPはイギリス領ケープ植民地へ異動となり、ズールー族とも戦いながらトランスヴァール共和国との戦いに備えて、同国の国境と接する最前線都市のマフェキングに軍の駐屯地を建設したのじゃ。
第二次ボーア戦争が始まると8000人以上のボーア軍がマフェキングを包囲。1000人程度の守備隊とマフェキング市民や「マフェキング見習兵団」の協力を得て、イギリス本国からの援軍が包囲軍を突破するまでの217日間(1899年10月13日~1900年5月17日)、マフェキングを守り抜き、結果的にボーア軍を釘付けにし、イギリスの勝利に大いに貢献したのじゃ。
BPはマフェキング包囲戦開始直前に、部下で当時のイギリス首相の息子でもあった「エドワード・セシル」に、兵役の適齢に達していない少年達の中から、ボランティアで「マフェキング見習兵団」を組織させたのじゃ。
当時のイギリス首相の息子が参加していたこの包囲戦の戦況は、イギリスだけではなく世界中のメディアから注目を浴びておったのじゃ。
マフェキング見習兵団は情報の伝達・郵便配達などの伝令業務、当番兵、見張り役などとして重用されたそうじゃ。
包囲戦集結後、マフェキング見習兵団はイギリス王室から勲章を授与されたのじゃ。
BPも軍功を認められ、史上最年少で少将に昇任し、1901年10月にイギリスに帰国したのじゃ。

世界中から注目された戦いで、イギリスに大戦果をもたらしたBPは「マフェキングの英雄」と呼ばれ、国中から熱狂的な賞賛をうけることになったのじゃ。

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当時のイギリス国内のBPへの熱狂度は、
今の日本で言うと、大谷翔平さん10人分くらい凄かったってところですかね。

1902年、ボーア戦争の終結とともにBPは戦場からは退くこととなったのじゃ。
1903年、陸軍監察長官に就任した。
陸軍監察官とは陸軍内の兵や将校が、業務上の不正や犯罪をしていないか監督・調査する役じゃ。
また、今まで培った騎兵による斥候や偵察の技術の伝承にも尽力したのじゃ。

1904年、ロンドンにあるイートン・カレッジで講演会を開き、当時急速に力をつけておったドイツの脅威と防衛の必要性を訴え、日本の「武士道」を賞賛し、中世ヨーロッパの「騎士道」復活を提唱したのじゃ。

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1895年に日清戦争に勝利した日本に、欧州各国からの関心が高まり、新渡戸稲造著『武士道』は1900年に英文で刊行され、列強各国でベストセラーになった。

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1906年6月、季刊誌「ボーイズ・ブリゲード・ガゼット」に『スカウティング・フォア・ボーイズ』の第1回が掲載されたのじゃ。
スカウティング・フォア・ボーイズ』はBP自らが文章や挿絵を描いた連載作で、後に書籍化されるのじゃが、これはスカウト運動についての最初の書籍となったのじゃ。
内容はBPの少年時代や、第二次ボーア戦争時、後述のブラウンシー島での経験などに基づいて記されており、イギリスの少年を中心に流行し、後に世界的ベストセラーになったのじゃ。

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イメージ的には「少年ジャンプ」に掲載された『鬼滅の刃』的な感覚ですね。

スカウティング・フォア・ボーイズ』に影響を受けた少年たちは、自主的に班を作り、“パトロール”活動を始めたのじゃ。
これがボーイスカウトの基礎となったとされておる。

同年7月、BPは『シートン動物記』の著者「アーネスト・トンプソン・シートン」(後のアメリカボーイスカウト連盟総長)と知り合うのじゃ。
技能章のバッジシステム、班名に動物の名前を使うこと、各種のゲームなどについて、彼の著作から採用することになったそうじゃ。

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班名に動物を使うルーツはこれだったんですね!
「ウルフ」フラグが立ってますね!

1907年6月、イギリスメディア界の重鎮「アーサー・ピアスン」から資金支援を受け、8月1日からイギリス海峡に面したプール湾に浮かぶブラウンシー島で、20名の少年達と8日間の実験キャンプを行ったのじゃ。
ブラウンシー島を選んだ理由は、この島の住人「チャールズ・バン・ラールト夫妻」から招待を受けたことがきっかけで、自然が豊富で余人に邪魔されず、ロンドンからのアクセスが比較的容易であったことじゃ。
参加した少年達の内訳は、ロンドンのエリート校に通う中産階級の子供と、プール湾周辺の労働者階級の子供じゃった。
少年たちは4つの班(シギ班・カラス班・ウルフ班・ブル班)に別れプログラムにチャレンジしたそうじゃ。

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「ウルフ」キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

イギリス海峡付近の地図がこちら

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1908年1月28日、BPはロンドンに事務所を開設し、ボーイスカウトイギリス本部を設置した。
これにより本格的にスカウト運動が開始されるのじゃ。また、連載じゃった『スカウティング・フォア・ボーイズ』を書籍として発刊したのじゃ。
スカウト運動(スカウティング)とは、若者の社会で有用とされ得る肉体的・精神的スキル向上の手助けを目的とする教育運動じゃ。
その教育はアウトドアとサバイバル技能に重きを置くのじゃ。
イギリス国民に英雄視されるBPが始めたスカウト運動は、瞬く間にイギリス国内に拡がっていったのじゃ。

当時のイギリスの義務教育は5歳~10歳までで有料であったため、農家や貧困家庭の子供達は学校に通うことすらできないことも多くあった。
また、都市部では路上生活をする子供達も多かったのじゃ。
BPはスカウト運動を通して少年たちを肉体的・精神的・技術的に成長させ、そのような状況を改善していく必要があると考えておった。

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親御さんもBPになら子供たちを預けたいって考えたでしょうね。

1909年、「無名(アンノウン)スカウトの善行」により、アメリカ合衆国でスカウト運動が拡まることになるのじゃ。

無名(アンノウン)スカウトの善行」について説明しよう。
アメリカのシカゴから仕事のためロンドンに来ていた「ウィリアム・ディクソン・ボイス」は、濃霧のため道に迷ってしまったのじゃ。

その時ひとりの少年が「何かお役に立つことはありますか?」と声をかけ、ボイスの荷物を持ち、目的地へ案内したのじゃ。

ボイスは少年にチップを渡そうとしたが、少年は敬礼して「私はボーイスカウトです。私に一日一善をさせていただきありがとうございます。スカウトは他の人を助け、お礼はいただきません。」と言い、名前も名乗らず、微笑んで立ち去ったのじゃ。

ボイスはボーイスカウトイギリス本部に立ち寄り、スカウト活動について調べ、関連書籍を収集しアメリカへ帰国したのじゃ。
ボイスは当時のアメリカ大統領「ウィリアム・タフト」らにイギリスでの出来事を話し、アメリカでのスカウト運動の発足に努めたのじゃ。

15年後にはアメリカのスカウトは100万人を超え、その功労者としてボイスを案内した少年を表彰しようとアメリカやイギリスのスカウトが調査したが、探し出すことは出来なかったそうじゃ。

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「一日一善」はガールスカウトのスローガンですね。
「一日一膳」はダイエットの時のスローガンですね。

1910年、BPは53歳でイギリス陸軍を退役し、スカウト運動に専念することになった。
この年アメリカ合衆国では、アメリカボーイスカウト連盟が結成されたのじゃ。

また、BPの妹「アグネス・ベーデン=パウエル」がガールガイドを創設したのじゃ。
当時は未婚の男女が一緒に活動をすることは、はしたないことという考えが一般的じゃった。
BPも女性には女性に適したスカウト運動があると考え、妹にガールガイドを創設させたのじゃ。

1911年、BPは趣味のひとつ「彫刻」を通して「ジュリエット・ロー」と知り合い婚約したのじゃ。
ジュリエット・ローは1860年アメリカ生まれ。
結婚してイギリスに住んでおったが、1905年に夫と死別した。
スカウト運動の主旨に感銘を受け、ガールガイドの指導者となったが、BPとの婚約を破棄してアメリカに帰国したのじゃ。
1912年にガールスカウトアメリカ連盟を設立し、最初のガールスカウトを始めた。
これが世界にガールスカウトが拡がるきっかけとなったのじゃ。

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ボーイスカウトからは少し遅れましたが、ガールスカウトもいよいよ世界に拡がっていったんですね。

1911年、日露戦争の英雄で来英していた「乃木希典」とBPが会見し、スカウト運動を紹介しておる。

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日本にボーイスカウト活動が伝わったのは1908年。
実際に活動が始まったのは、1911年に乃木希典がイギリスから帰国後、神奈川県藤沢市の片瀬海岸でボーイスカウト式のキャンプが実施された。

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日本にも意外と早く伝わってたんですね。

1912年1月、イギリス国王「ジョージ5世」により、イギリスボーイスカウト連盟が公認された。
BPはスカウト運動を拡める一環として世界一周旅行に出発する。
アメリカ、パナマを経て日本にも訪問し6日間滞在したそうじゃ。

なお、BPはニューヨークへ向かう途中で「オレブ・セントクレア・ソームズ」と知り合い結婚したのじゃ。
オレブ・セントクレア・ソームズは1889年2月22日生まれで二人姉妹の妹。
裕福な家庭で育ち、多くの家庭教師などから教育を受け、野外スポーツにも積極的に挑んだそうじゃ。
結婚当時BPは55歳、オレブは23歳じゃった。BP夫妻は後に一男二女の3人の子どもを授かったのじゃ。1915年にオレブの姉が亡くなると、その子供たち3人も引き取って育てたそうじゃ。

オレブはアグネス・ベーデン=パウエルからガールガイドの実質的な運営を委ねられ、女性は男性と同等のパートナーであること、自信をもち、積極的に社会参画することを尊重したのじゃ。
そして、少女たちの素質と才能を引き出し、社会に役立てるためのプログラムをつくり出したのじゃ。

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ガールガイドが日本に伝わり、最初の団が発足したのは1920年。
同年7月に福島県の猪苗代湖畔で最初のキャンプが行われた。

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1914年~1918年、第一次世界大戦が勃発し、イギリスを含む連合国側がドイツを中心とした同盟国側に勝利したのじゃ。
この間、多くの成人指導者が兵士として動員されたため、スカウト運動は危機にさらされたが、子どもたち自身が考え、工夫しながら活動を継続したそうじゃ。

1919年、イギリスボーイスカウト連盟は、ロンドンの郊外にあるギルウェル・パークという土地を寄贈され、そこに隊長訓練所を開設したのじゃ。
現在ギルウェル・パークはボーイスカウトのリーダー研修のための拠点となっており、毎年世界中から多数のスカウトのリーダーたちが研修を行うために訪れておる。

1920年、第1回世界ジャンボリーにおいて、参加しているスカウトたちから「世界の総長(Chief Scout of the World)」に推挙されたのじゃ。
第1回世界ジャンボリーはイギリスの首都ロンドンのオリンピアで行われ、世界中から約8,000人のスカウトが参加したそうじゃ。

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第1回世界ジャンボリー 約500名のカブ隊による演技の写真
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すごく広いところでやってるように見えますけど、
これ室内だそうですよ! オリンピアってデカイですね!

1921年5月17日 、BPはロンドンにおいて欧州視察外遊中の日本の皇太子「裕仁親王(後の昭和天皇)」に謁見し、イギリスボーイスカウト連盟の最高功労章である「シルバー・ウルフ章」を贈呈したのじゃ。

1922年、BPはジョージ5世から「ベントリーの準男爵(Baronet "of Bentley")」に叙任されたのじゃ。

1923年、BPは「ビクトリア十字勲章」を授与されたのじゃ。
ビクトリア十字勲章はイギリスおよびイギリス連邦王国構成国の軍人に対し授与される最高の戦功章で、「敵前において勇気を見せた軍人」に対してのみ授与される勲章なのじゃ。
また、“勇気”の基準が厳しく、世界各国において制定されている戦功章の中で最も受章が困難な勲章であるといわれておる。

1927年、BPはノーベル平和賞の最終候補まで残るが、受賞を逃すのじゃ。
1927年のノーベル平和賞は独仏融和に貢献した「フェルディナン・ビュイソン」(仏)と「ルートヴィッヒ・クヴィデ」(独)が受賞したのじゃ。

1929年、BPはジョージ5世から初代の「エセックス州におけるギルウェルのベーデン=パウエル男爵(Baron Baden-Powell, of Gilwell in the County of Essex)」に叙任されたのじゃ。

鱗滝
ウルフ

ここで「ベーデン=パウエル・オブ・ギルウェル」の呼称が誕生したんですね。

1934年、BPは前立腺摘出の手術をうけ、一時危篤状態となるも回復したのじゃ。

1935年、国際委員会(現在の世界スカウト機構)により、BPに対して「ブロンズ・ウルフ章」が贈られたのじゃ。
ブロンズ・ウルフ章は世界スカウト機構が授与する唯一の功労章で、世界のスカウト運動に特に顕著な功績を残した個人に送られるのじゃ。

1937年8月9日、BPは第5回世界ジャンボリー(オランダ・ハーグ)において、参加した2万7000人のスカウトを前にラストスピーチを行ったのじゃ。

鱗滝

BPラストスピーチ

私は人生の終わりに近づいています。
あなたたちの人生はまだ始まったばかりです。
私はあなたたちの人生が幸福であることを望んでいます。
あなたたちは、どんなときもスカウトスピリットを実行し、最善を尽くすことによって幸福を実現することができます。
さようなら。神のお恵みがありますように。神のお恵みがありますように。

ダークインフェルノスパイラルもぐら
ウルフ

この時BPは80歳になってたから、当時としてはすごく長寿で元気だったんですね。

1938年、BP夫妻はケニアニエリにコテージを購入。
そこをパックス・トゥ(Paxtu)と名づけ、転居したのじゃ。
ケニアは近代まで無政府地帯であったが、1895年にイギリス領東アフリカとなり近代化が始まり、1920年イギリス直轄のケニア植民地となっておった。
ニエリはケニアの中央部に位置し、周りを豊かな森林に囲まれ、ケニアの最高峰であるケニア山(5,199 m)を望む絶景が有名な町じゃ。

1939年、第二次世界大戦が勃発した。
この年BPはノーベル平和賞の受賞が決定されておったが、第二次世界大戦のためノーベル平和賞自体が取り消されてしまったのじゃ。

鱗滝
ウルフ

2度もノーベル賞受賞チャンスがあったのに残念!
でもBPの功績は変わりませんからね!

1941年1月8日午前5時45分、BPは84歳でこの世を去ったのじゃ。
遺体はニエリのセントピーターズ墓地に葬られた。墓石には追跡サインの「帰った」を意味する「ʘ」が刻まれておる。
墓碑はロンドンのウェストミンスター寺院にもあり、現在もボーイスカウトとガールスカウトの旗で飾られておるぞ。

オレブ夫人は翌年イギリスに戻り、1977年に亡くなったのじゃ。
遺灰はケニアに運ばれ、BPの墓石のそばに収容されたそうじゃ。

2001年にケニア政府はBPのお墓を国定公園に指定したそうじゃ。

鱗滝
ニエリにあるBPの墓

つい長くなってしまったが、
以上がBPの生涯についてわしが知っておることの全てじゃ。

鱗滝
ウルフ

説明ありがとうございました!
まさに波乱万丈な生涯だったんですね。
亡くなった後も世界中のスカウトたちから慕われてるなんて、とっても凄いことですよね。

その通りじゃ。
ボーイスカウト呉第12団・ガールスカウト広島県第6団の皆も
この「BPスピリット」を受け継いでいって欲しいものじゃな!

鱗滝
ウルフ

ではこのページ最後になりますが、
BPがなくなった後、彼の書きものの中から発見された「BPラストメッセージ」の日本語訳をダークインフェルノスパイラルもぐらさんからどうぞ!


BPラストメッセージ

スカウト諸君

「ピーターパン」の劇を見たことのある人なら、海賊の首領が死ぬ時には、最後の演説をするひまはないにちがいないと思って、あらかじめその演説するのを、覚えているであろう。私もそれと同じで、今すぐ死ぬわけではないが、その日は近いと思うので、君たち に別れの言葉をおくりたい。

これは、君たちへの私の最後の言葉になるのだから、よくかみしめて、読んでくれたまえ。

私は、非常に幸せな生涯を送った。それだから、君たち一人一人にも、同じような幸福な人生を、歩んでもらいたいと願っている。

神は、私たちを、幸福に暮らし楽しむようにと、すばらしい世界に送ってくださったのだと、私は信じている。金持ちになっても、社会的に成功しても、わがままができても、それによって幸福にはなれない。幸福の第一歩は、少年のうちに、健康で強い体をつくっておくことである。そうしておけば大人になった時、世の中の役に立つ人になって、人生を楽しむことができる。

自然研究をすると、神が君たちのために、この世界を、美しいものやすばらしいものに満ち満ちた、楽しいところにおつくりになったことが、よくわかる。

現在与えられている ものに満足し、それをできるだけ生かしたまえ。ものごとを悲観的に見ないで、なにごとにも希望を持ってあたりたまえ。

しかし、幸福を得るほんとうの道は、ほかの人に幸福を分け与えることにある。

この世の中を、君が受け継いだ時より、少しでもよくするように努力し、あとの人に残すことができたなら、死ぬ時が来ても、とにかく一生を無駄こ過ごさず、最善をつくしたのだという満足感をもって、幸福に死ぬことができる。幸福に生き幸福に死ぬために、この考えにしたがって、「そなえよつねに」を忘れず、大人になっても、いつもスカウトのちかいとおきてを、堅く守りたまえ。

神よ、それをしようとする君たちを、お守りください。

  君たちの友 ベーデン=パウエル・オブ・ギルウェル

ダークインフェルノスパイラルもぐら

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「BPクイズ上級編」など朝飯前であろうのう。

鱗滝

BPクイズ上級編

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2022年2月11日

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